学歴パンチ

学歴なんて意味が無い、と口にするのは低学歴の人である。いわゆる床屋談義で、命題に根拠が無い。社会に出たら学歴なんて関係無い、についても同じである。会社でのパフォーマンスは『必ずしも』学歴の高さと相関関係に無い、という事実の部分を拡大解釈した誤った主張である。


会社での学歴トークは宗教や政治や顔の痘痕と同じく非常にセンシティブだ。自分の母校出身の有名人から近所のうまいラーメン屋まで、有名私立・旧帝大出身者がこの世の春のごとくトークを繰り出す傍で、無名大学出身者は藁に蹲ったハムスターのごとく身を小さくする。どこの大学?と聞かれても、たぶん知らないと思いますが…、という枕詞から始めなければならない。


出身の中学校・高校の話に至り、いよいよ穏やかならざる雰囲気が漂う。なぜかというと、若い時に通っていた学校は、その人の地頭の評価につながるからである。東は筑波や麻布、西は灘や北野といった学校を卒業していれば(または中退という経歴でもさして違いは無い)、その後どれだけ堕落した人生を送っても、先天的な天才性が担保される。この評価は一生崩れない。十歳で神童で二十歳過ぎればただの人、というのは嘘である。昔は神童と呼ばれたけど今は普通だよ、と繰り出す人は、単に俺は天才肌で地頭が良いと主張している。


俺の中学校時代の成績は中の下だった。偏差値60未満の高校受験に失敗し(すべり止め、本命共に落ちた)、命からがら3月に試験を実施していた専門学校に入学した。塾に行き、ある程度の勉強をした上でのローパフォーマンスだったので、勉強を一切せず遊びほうけていた、などのエクスキューズは、残念ながら無い。頭が悪かった。天王寺や灘や北野は雲の上の高校だと思っていた。


なぜだか高校・大学で勉強をすることに開眼して、小難しい本を読むようになった。そうすると次第に、俺は賢くありたい、と思うようになった。賢いではなく、賢くありたい。先天的な自分の天才性は信じずに、単純な努力の結果として賢くなりたい。


自分の先天的な天才性は信じず、というのは半分嘘になる。自分の才能も信じたい。生まれ持っての賢さを信じたい。


そんな自分に釘をさすのは中学校時代の自分のローパフォーマンスである。俺は先天的に馬鹿なんじゃないか、努力しても無駄なんじゃないか、と思う。何より数学があまり得意ではなかったし、今も得意ではない。数学の出来る出来ないは地頭の良さと相関する、と俺は信じている。人類史上最も頭が良かったのはオイラーフォン・ノイマンだ。


自分の会社には偏差値70近辺の高校出身者が吐いて捨てる程いる。彼らの華麗な経歴、神童っぷりを聞くたびにため息が出る。と、同時に、頭の良さは努力の量に比例するという自分の信念にいっそう磨きがかかる。年をとった神童との競争に勝ち続けることが唯一自分の能力と賢さを肯定する。


そんなめんどくさい話。

社会学 情報メディア 環境論 コミュニケーション 科の卒業です。