失われたシステムの中で

津波被害があった地域のがれき受け入れ反対の意見に違和感を感じる。ネット上で様々な記事を読むと、議論の核となるべき論理(証明のための事実やロジック)が失われ、ヒステリックな思い込みが内容を支配しているように見える。たとえば、がれきの受け入れを表明した群馬の町村に関する以下のような記事だ。

大震災1年<4>がれき受け入れ検討の町村 「大丈夫という保証ない」(東京新聞)]


 「がれきで困っている市町村がある。できるだけお手伝いするのが人の道だ」。今年一月二十五日、中之条町東吾妻町、高山村でつくる吾妻東部衛生施設組合で東日本大震災で発生したがれきの受け入れ方針を発表した同組合管理者の折田謙一郎・中之条町長は、記者会見で理由についてこう説明した。
 受け入れ表明は県内で初めて。二月二十九日には同組合や県の職員らが岩手県宮古市と山田町を視察した。今月七日夜、中之条町役場で開かれた同組合議会の全員協議会。組合事務局から詳しい視察報告が行われた。
 同組合が、がれき周辺の十五カ所で測定した地表と地上一メートルの空間放射線量は〇・〇二〜〇・〇七マイクロシーベルトで、中之条町沼田市の平均よりも低い。がれきから採取した四検体の放射性物質濃度は最大でも一キログラム当たり三六ベクレルで、環境省が焼却前の目安として示す同二四〇〜四八〇ベクレルを下回り、宮古市で採取した検体は不検出だった。
 折田町長は「これで安全性が確認できた」として、近く三町村の議員と区長の代表を集めた説明会を開く考えを明らかにした。
 しかし、受け入れ先となる中之条町中之条のごみ焼却施設「吾妻東部衛生センター」は県中之条土木事務所に近い住宅地の一角にあり、住民の間に不安の声が広がっている。
 三人の小学生を育てる町内の三十代の主婦は「国の示す数字が本当に安全で正しいのか疑問。岩手県のがれきだから大丈夫という保証もない。子どもの健康が心配で、受け入れには反対だ。そもそも住民説明会を先に開いてから決める話ではないか」と怒りをあらわにする。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20120309/CK2012030902000097.html


がれきが体積している宮城、岩手の諸地域について、環境省が定める基準値を下回る放射線量しか測定されていないにも関わらず、受け入れ反対の人たちは耳を貸さない。がれきから採取した放射性物質濃度が示す値は、健康に被害が及ぶ閾値となる二四〇ベクレルを下回っているにも関わらず、その結果が大丈夫という保証がないという。


受け入れ反対の人たちの根底にあるのは、原発事故を引き起こした組織に対する不信感である。彼らは情報の正当性を、内容の論理性ではなく、情報提供者の属する組織によって判断する。東京電力やそれを支援してきた国の情報の一切をまるでアレルギー反応のように否定する。


受け入れ反対の人たちの心情を以下のように説明する記事がある。

「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな-シートン俗物記


放射性物質に曝露されて発ガン性の確率が僅かに上がる。それは装弾数のやたら多い拳銃を利用したロシアンルーレットみたいなものかもしれない。だが、どんなに確率の低いロシアンルーレットであろうとも、その拳銃を勝手に相手に向ける事は許されないし、向けられる方にはそれを拒否する権利がある。

科学的に見て健康に影響があるかどうか、を基準とするのは大元から間違っている。頼みもしないものをぶち播かれて、それを受け入れろ、と言い募る。そして、それを正当化する。
そうした事を批判し、拒否しているのだ。「放射能に対する怖れ」ではなく、「そのような事態を起こした者達やそのシステムに対する怒り」なのである。

http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20120229/1330524920


Dr-Setonさんは、宮城や岩手に堆積しているがれきを、店員の指が突っ込まれたラーメンにたとえる。指がつっこまれたラーメンが健康に被害があるかどうかは問題ではない。ラーメンに指を突っ込む店員の接客行為が問題であり、粗悪な接客行為がラーメンの品質全てを無に返すと。


一度嘘をついた人間の情報の正当性を、その論理性だけで判断するのは難しい。一度嘘をついた人間の情報は、眉に唾をつけて、あらゆる可能性を考慮して、その正当性を判断する。


人は、論理性だけを基準として、情報の正当性を判断することができない。なぜなら、情報の論理性をすべての人が平等に理解することができないからだ。不足した論理性を補完するのは、情報提供者のバックグラウンドであり、情報提供者に対する感情である。評判のいいお医者さんだから、昔お世話になった恩師だから、この人の言うことを信じよう。この人の言っていることは、正しいに違いない。そういう風に思考するのが、人の性なのかもしれない。


しかし、と思う。


論理性だけを頼りに情報の正当性が判断できないとしても、情報提供者のバックグラウンドや情報提供者に対する感情をもって、論理性そのものを否定することはできない。論理を否定するためにはそれを反駁するしかない。指をつっこんだラーメンの衛生面での問題を科学的な手法で指摘できないのであれば、ラーメンの品質についてとやかく言うべきではない。(余計なウンチクをたれる店員の接客態度に文句をつければいい)


二四〇ベクレルを下回る放射性物質濃度のがれきが健康に被害を及ぼす可能性があるならば、それを科学的に証明しなければならない。または、二四〇ベクレルを下回る放射性物質濃度であれば健康被害が無いという科学的な知見が依拠するデータやロジックの不備を指摘しなければならない。


議論を支える土台を履き違えてはならない。


失われたシステムの中で、それでも科学的な叡智を信じて新しいシステムを作り、支えていくには、新しい論理を作り出すしかない。


あくまで理性的に、せめて人間らしく。

限りなく透明に近い毒の気は空の青にも染まずただふ(賽野かわら)