震災と言葉

東日本大震災について、未来歌稿用の短歌を何首か作った。自分にとって三月十一日とは何だったのか。自分の脳裏に浮かんだことを歌にしようと思ったが、どうもうまくいかない。


震災は、自分にとって、遠く離れた場所で起こった出来事だ。


津波が全てを流し去った街、放射能汚染で人がいなくなった街。自分の眼で確かめた風景は何も無い。全て画面を通して、メディアの報道を通して被害の大きさを知った。


テレビで、ブログで、ツイッターで、震災について伝えられる情報が少なくなっている。心臓を破るような地震速報が鳴らなくなり、東海道新幹線がいつも時刻通りに運転されるようになって、離れた場所で起こった地震を強引に自分に引き付けていたあらゆることがかすれていく。


一年前、震災を忘れないようにしようと日記に書いた。五年経って、十年経っても震災の影響で苦しむ人に手を差し伸べられるように、震災を忘れないようにしようと書いた。一年しか経っていないけれど、砂時計の砂のように、震災に対する考えや思いが自分の頭から流れ出ていっている。


震災が起こって、東北が自分に近づいてきたような気がしたけれど、そんなことは無かった。俺と東北の人を直接的につないでいる「絆」は、赤十字に送った五万円の寄付金だけだ。


離れた人達に何か思いを伝えようと思うけれど、言葉が頭に浮かんだとたんに、意味を失って、白々しく響く。「絆」、「希望」、「助け合い」という言葉を投げかけられて、嬉しいことなどあるのだろうか。


もし、俺が東北の街に住んでいて、津波で家や家族を失い、仮設住宅で暮らしていると想像してみる。そのとき、遠くはなれた大阪の人間に何かしてほしいことはあるだろうか。


きっと、言葉を与えられるのではなくて、自分の言葉を聞いてほしいと思うのではないだろうか。遠く離れた他人の言葉ではなくて、自分の経験や、つらさや、復興に対する言葉に耳を傾けてほしいと思うのではないだろうか。


津波が足元まで押し寄せてきたこと、一階下で働いていた同僚が流されたこと、二年前に建てた家が無くなったこと。


話しただけでは何も変わらないかもしれないけれど、自分の言葉を聞いて、頷いてほしい。話し相手になってほしい。近くに住んでいる親戚にも、遠く離れた他人にも、自分の言葉を聞いてほしい。そんな風に思うだろうか。


東日本大震災から一年、阪神大震災から十七年経った。来年も、再来年になっても、震災のことを忘れずにいたい。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)