砂糖と生活

茶店に行っては、袋詰めの砂糖を持ち帰る。大体3gくらいのものが主流で、大きい袋だと5g、6gは入っている。持ち帰った砂糖は、週末に飲むコーヒーに入れて使う。家で料理をしないので、砂糖はコーヒー用途で使われるだけ。IKEAのチャックつきのビニール袋に入っている砂糖袋は、少しづつ減っていく。


結構な量の在庫があったと記憶していたので全く気に留めていなかったのだが、今朝確認すると、カフェドクレバーという店の赤色の砂糖袋が二袋しかない。気づかないうちに月日が流れて、砂糖が減っていた。


砂糖があれば、週末、自宅でコーヒーを入れることができる(甘くないコーヒーはあまり飲まない)。無くなればコンビニに行って、何十本砂糖袋が入ったパックを買えばよい。


自分の悪い癖で、生活を構成する色んな面倒くさいことを省略したいという志向がある。何か買い物したり、メンテナンスしたりしないといけないものは、最初から無いほうがマシだと思う。どうってことないのだが、ある砂糖は使うが、無ければ買い足すほどのことでもない、と考える。


生活をすると何かが減っていく。シャンプーも洗濯洗剤もおかきもトマトジュースも砂糖も減っていく。スーパーやコンビニに行ってはそれらを買い足して、家に帰っては使うという終わりの無いサイクルだ。


以前、内田樹さんがこんなことを言っていたのを思い出す。

お掃除するシシュフォス


家事というのは「無限」だからである。
絶えず増大してゆくエントロピーに向かって、非力な抵抗を試み、わずかばかりの空隙に一時的な「秩序」を生成する(それも、一定時間が経過すれば必ず崩れる)のが家事である。
どれほど掃除しても床にはすぐに埃がたまり、ガラスは曇り、お茶碗には茶渋が付き、排水溝には髪の毛がこびりつき、新聞紙は積み重なり、汚れ物は増え続ける。
家事労働というのは「シシュフォスの神話」みたいなものなのである。

http://blog.tatsuru.com/2009/06/07_1532.php


内田さんは生活ではなく家事という言葉を使っている。砂糖は無くなるし、部屋は汚れるし、洗濯物はたまっていく。エントロピーが増大していく。しかし、エントロピーに向かって非力な抵抗を試み、吹けば崩れる小さな秩序を形成し続けることが、なんというか、人間の普遍的で根源的な営み、生活であるという。


誤解を恐れずに言えば、生活とは、絶えず減っていく砂糖を買い足し、週末のコーヒーという小さな秩序を形成することだ。


そんな面倒くさいことを考えながら、最後にあまった二袋の砂糖袋をコーヒーに入れ、甘くなったコーヒーを飲みながら、今日結婚式に行った帰りに、コンビニに行って、砂糖のパックを買って帰ろうと思った。

ヨーグルトの蓋開ける時にヨーグルトが飛び散ったくらいのネタしかないよ(賽野かわら)