成熟した社会の退屈なワタシ

堂山町の回転寿司屋で寿司を食べ、茶屋町のカフェでコーヒーを飲んだ後、人が溢れる阪急梅田32番街を抜けて、 紀伊國屋書店梅田店に入った。


仕事術・整理術、自己啓発、古典、他ビジネス書を眺め、人文書の棚へ。内田樹東浩紀仲正昌樹の新刊を手に取り、俳句・短歌の棚へ。平積みされていない穂村弘岡井隆枡野浩一の本のタイトルを一通り読んで、そのまま何も本を買わずに店を出る。


何度となく本屋に赴き、目的のものが見当たらず、何も本を買わずに立ち去ってきた。


本を読む理由はたくさんあるけれど、『自分が何をすべきかを知る』のも理由の一つだ。偉人の伝記、示唆と知見に溢れた科学書、目の覚めるような画集。自分の人生をドライブするような本に出会うことは幸福であり、ずっとそんな本に出会うために、本屋を彷徨ってきた。


『自分探しの旅』と言えば余りに陳腐に聞こえるが、実際にそれほど陳腐な行為なのかもしれない。


今、俺が探している本は『自分が何をすべきかを知る』ための本だ。この世でたった一冊の、自分のこの先の人生を決定する、劇薬のような本。『Stay hungry, Stay foolish』になれる物語が詰まった本。


本に書かれている物語はきっと、永遠に色あせない、常緑の大樹のように違いない。プロジェクトXに登場する決して諦めないサラリーマンがひたすらに一つの物語を信じて働いたように、自分もその物語に首まで浸かり、昼夜を忘れて没頭するだろう。それはかけがいのない自分を補完する『あなた』の物語だ。


物語に没頭するためには、物語が閉鎖的であることが一つの条件である。物語に必要ないものが除去され、目的が純化された世界でこそ、人は何かに没頭できる。それは一種の思い入れ(悪くいえば思い込み)を伴い、何かを強制する。目的という観念のために人を動き、時に死に至る。『あなた』の物語は劇薬である。


『考える人』2010年夏号のインタビューで村上春樹は閉鎖された物語が多くの狂信者を魅了したのがオウム真理教だったと語っている。閉鎖された物語は信者に反社会的な目的を強制し、犯罪をさとした。不純な世界からの救済という目的が純化され、信者は地下鉄でサリンをまき、人を殺した。強制力のある『あなた』の物語は劇薬である。


村上は物語はオープンであるべきだと言う。例えば小説のように、一次的に没頭させても、寝て起きればリセットされるような一過性の物語。オウム真理教が提供する閉鎖的で強制的な『あなた』の物語に対して、村上春樹が提供する解放的で自由な『どこかのだれか』の物語。物語は人に考えることを要請し、判断を促すべきだと言う。しかし、『どこかだれか』の物語は退屈である。純化されていない『どこかだれか』の物語は、『あなた』の物語を決して補完しない。『あなた』の物語を忘れるためには、『どこかだれか』の物語を消費し続けなければならない。


7月にフジテレビで放送していた27時間テレビ。ナイティナインの矢部が27時間ぶっ通して走り続けてきた最後の30分、相方の岡村や他のめちゃイケメンバーが見守る中、1本のVTRが流される。それは、2010年に病気で一時休業した岡村に対する矢部の想いだ。相方の突然の喪失、相方への尊敬の念、そして相方復帰への喜び。矢部の本音を聞いた岡村は涙を流しながら、走る矢部を迎えに行く。


27時間テレビという大きな舞台に用意されたナインティナインの再生の物語を、俺を含めた多くの視聴者が共有し、感傷に浸る。しかし、その感傷は一過性の、ものだ。なぜならそれは、ナイティナインの『あなた』の物語だからだ。他人である我々は一晩経てば正気に戻り、また次の物語を求める。没頭と感動を求めて次の消費行動へと移る。


『どこかだれか』の物語をもとめるのは、『あなた』の物語が水を入れすぎたカルピスのように薄まっているからだ。達成されるべき目的は見当たらず、『自分が何をすべきか』は解の無い方程式のようだ。物語最大の『生きる』という目的は、自分の半径50m以内の領域で、満たされてしまう。歩いて1分のコンビニで生活に必要な全ての物を購入でき、パソコンを開けて10秒で、あらゆる情報を、あらゆるコンテンツを得ることができる。限りなく自由で、限りなく便利で、限りなく成熟した社会で、『あなた』の物語を失い、俺は限りなく退屈だ。


『あなた』の物語が完全に薄く引き延ばされても、そこに味の濃い原液を注ぎ込むような物語を、社会は提供してくれない。60年安保や、反ベトナム戦争や、西武百貨店が流れていった跡には草が生い茂っている。過去に栄光を誇った大きな物語は既に解体されて久しい。その解体された物語の破片をつなぎ合わせてみようと思ったが、うまくはいかない。


成熟した社会が提供する『あなた』の物語は、そのほかの『どこかだれか』の物語に吸収される。3月11日の発生した大地震や、福島第一原発の事故は、国家や民族というフィルタを介して、『あなた』の物語になることを、テレビやインターネットといったメディアは強要する。しかし、俺には物語をうまく共有できない。メディアが提供する他の『どこかだれか』の物語、村上春樹が提供する『どこかだれか』の物語と同次元で、消費してしまう。当事者であるはずなのに、その物語は自分に寄り添ってこないように感じる。


『あなた』の物語を探して、紀伊國屋を彷徨ったが、結局何も見つからなかった。紀伊國屋を出ると、天井の高い、大きなテレビが二台備え付けられた空間には、誰かを待つ人々が溢れている。彼らは、俺と同じように、『どこかだれか』の物語を消費して、一晩の感傷と涙を得るのだろうか。それとも、『あなた』の物語を生きている人たちなのだろうか。

君達が この学校を卒業し 社会に出ても 明日はないぞ (賽野かわら)