御堂筋バスターズ Ep.2 寄生理論

二日酔いの体にコーヒーの苦味が染み渡る。体の疲れが透明な蛇になって俺の体の回りでトグロを巻いている。目の前には馬のマスクを被った女が一人。黒の丈の短いチュニックで、腰には幅のあるベルト、足元は膝上まであるブーツを履いている。そして、馬マスクの切れ目から下は透き通るような肌が惜しげもなく露出し、胸の膨らみで襟が大きく開いている。


『マスクが馬である必然性は何も無いの。一度寝た男、つまり私の恍惚としたあられもない顔を見られた男に、二度と私の顔を見せたくないだけ。』


そういわれた瞬間、昨夜、タクシーで出会った女を貪るように抱いた感触を思い出した。


『一夜限りで後腐れの無い女だと、容赦無いのね。足の指先まで舐めまわして来た時は、蹴り飛ばしてやろうかと思ったわ。』


『エリートサラリーマンがどこの馬の骨かもわからない女と行きずりで
セックスする。貞操っていう言葉があるでしょう。労働ヒエラルキー
トップに君臨する人間が、社会規範にそむいて良いという法は無いわ。』


『おいおい、ちょっとまてよ。風俗嬢が、えらそうなことを言ってくれるじゃないか。』


俺は汗をかいた手でテーブルを抑えて、声を荒げた。金払いが悪い取引先に出向き、担当者を怒鳴りつけることには慣れている。これは、交渉の主導権を握るための、一つのテクニックだ。取引先担当者が複数人いる場合、場の主導権を握るためには、相手を威圧するのが最も手っ取り早い。女一人、痛い目を見せるくらい、訳は無い。


『風俗嬢じゃないわ。私はこういう人間よ。』


木村寛子は椅子に置いていたブルーのハンドバッグからアルミのケースを取り出し、そこから一枚名刺を取り出して、テーブルに置いた。白黒の無味乾燥とした字体で「大阪大学大学院経済学研究科 准教授 木村寛子」と書いてある。俺はテーブルに置いた手を引っ込めるタイミングを失い、両手を前に差し出した間の抜けた格好でテーブルの名刺に書いてある文字を眺め続けた。


『名前しか名乗っていなかったわね。私、大阪大学で経営工学を教えているのよ。』


木村寛子は歯がむき出しになった馬の口もとに右手をあて、ゆっくりとなでた。細い指の爪は、ピンク色でたっぷりのラメがちりばめられたマニキュアが塗られ、角度をかえるたびにきらきらと輝いた。そして、丸出しになった太ももの上にかかったチュニックの裾を手首で押さえ、足を組み替えた。


この馬のマスクを被った女が、国立大学の准教授。


『研究テーマはイノベーションと呼ばれる社会に大きな変化をもたらす技術や革新について。ヨゼフ・シュンペーターが提唱した創造的破壊という言葉は、あなたも聞いたことがあると思うけれど。シュンペーターは経済的な発展は企業家によるイノベーションによってもたらされると提唱した。そして、あらゆる時代、あらゆる地域でイノベーションは観察されている。』


『でも、私の関心はイノベーションと呼ばれる現象自体ではなく、それを阻害する要因。大企業に"寄生"する虫たちがどれだけイノベーションを阻み、経済成長の停滞を生んでいるか、ということを研究しているの。』


『あんたの講義を聞く気はない。』


木村寛子の流れるように繰り出される言葉に圧倒されそうになり、思わず俺は口を挟んだ。


『ふふ。少し付き合いなさい、斉藤君。名古屋大学の天本英次教授は2001年に「日本経済の長期停滞要因に対する構造的分析-寄生理論の適用可能性-」という論文を発表した。1990年代のバブル崩壊後の「失われた10年」は、金融政策の失敗が大きな要因にあげられているけれど、それは顕在化している瑣末なものに過ぎない。』


馬のマスクがまっすぐ俺のほうに向いた。


『2000年以降、日本経済は大きな躍進を遂げていない。経済という大樹は、いくらマネーという水をまいても、青々とした葉をつけることは無い。その大きな要因は、大樹に寄生する虫達。雨が降っても、風が吹いても、ただ木肌にただしがみついて動かない虫達によって、成長に必要な栄養は全て搾り取られている。』


『虫とは、大企業や行政機関に巣くうエリート達よ。何十年前の受験という能力査定を受けただけで、就職後は成長曲線が水平、むしろ下降する一方のポンコツ野郎達だわ。』


木村寛子は虫という言葉を発する時、指揮棒を振るように、マドラーの先っぽを振って、俺の顔の輪郭をなぞるように円を描いた。


『景況という波に乗って、一流商社に就職。学歴という唯一の武器で
入社したのはいいけれど、知識も無ければ地頭も無い。向上心も無い。
会社のブランドを声高にして夜の街で遊び、金を浪費。2年前、外食部門の営業部から総務部に転属。今はコピー機のメンテナンスと紙の補充が主な仕事だったかしら。』


俺は顔に血が流れてくるのが分かった。一気に流れ込んだ血液で、血管が圧迫され、目蓋は重くなり、鼻が詰まった。


『今後一生、出世の道が開けることは無いわね。担当課長くらいで打ち止めかしら。学歴という唯一の武器で社会に出たのと同様に、社名という唯一の勲章を胸にして、退職していく。哀れね、斉藤君。』


俺は目の前のコーヒーを手で払い、床にぶちまけた。そして、立ち上がり、前のめりになって、木村寛子の肩を思い切り掴んだ。


『おい!お前、何で俺のことを知っているんだ!』


木村寛子は、倒れないように掴まれていないほうの手で椅子の背もたれを掴み、仰け反った。馬のマスクでぐるんとまわして後ろを振り向き、


『ヘンリー!』


と叫んだ。と、同時に、窓際のカウンター席に突っ伏して寝ていた男が起き上がった。身長180cmほどの小太りの男が、黒のロングコートをなびかせながら、テーブル席に向かって走ってきた。そして、ポケットから黒い柄のバタフライナイフを取り出した。


『寛子さんから手を離せ、殺すぞ。』


ヘンリーと呼ばれた男は飛び出るほどに目を見開いていた。そして、握り締めたバタフライナイフの刃先は上を向き、震えていた。俺は手に浮いた汗を包むように木村寛子の肩を握り直した。


『ナイフをしまいなさい。人が来たら面倒だわ。』


低い声で「はい」と返事をすると、ヘンリーはバタフライナイフをくるくるとまわして刃を収納し、黒のロングコートのポケットにしまった。脂でテカテカとした髪をかきあげ、わざとらしく舌打ちをした。


『斉藤君、手を離しなさい。』


俺は木村寛子から手を離して、手の汗をズボンで拭った。そしてネクタイを締めなおした。さっきまで静かだった店内は、小さなボリュームで四つ打ちのダンスミュージックが流れていた。けだるい休日の午前の空気が漂う中、俺の半径3mは、ドリンクバーでメロンソーダとウーロン茶を混ぜてしまったような、まとまらない色の空気が渦巻いていた。


『いったいどういうことだ。俺はあんたと昨日会ったばかりだ。佐用ダイヤモンドリゾートの社長と北新地で飲んだ後、タクシーで帰る際に、後部座席にあんたが勝手に入ってきた。社長が「好きにしていい」というから、俺はホテルに連れ込んだんだ。あんた、クラブの女か風俗嬢だろ。それが、なんで大学の准教授で、俺の身辺を知っていて、馬のマスクを被っているんだ!わけがわからない!』


張り上げた声が店内に響いた。片付けに二階に上がってきた初老の女性店員はダスターを持ってこちらをじっと眺めている。


『ガムを頂戴。』


木村寛子は胸に深い谷間を作るように腕を組み、ヘンリーはポケットに手を入れて前かがみになりながら、俺の顔を見ていた。俺は木村寛子のほうを見つめながらポケットを探り、四角い固形物を探し当て、机の上に放り投げた。木村寛子はそこから一枚、シートになったガムを取り出し、マスクの首元から手を入れて食べた。甘い、爽やかな香りが漂った。


『あなたの血液型、家系、持病、性癖等、全てを調べ上げた。そして、
昨日の情事については、一挙手一投足をビデオに収めた。あなたが私に放った「変態女」、「くされビッチ」、「淫売豚野郎」といった下品な言葉は全てデータとして記録したわ。』


コピー機メンテナンス係の斉藤君。あなたは私のフィールドワークの駒の一人になった。経済に蔓延る虫達を操り、この世の弱者を救済するという計画の共犯者になるのよ。』


木村寛子はブルーのハンドバッグから小さな紙切れを取り出し、短冊形に折りたたみ、さっき食べたガムの外紙に入れた。


『月曜日に出社したら、紙に書いてある男を訪ねなさい。そしてあなたがやるべき作業を聞きなさい。』


木村寛子は机の上にガムの外紙に包まれた紙を机に置いた。ヘンリーが手を差し伸べると、木村寛子はブルーのハンドバッグを預けた。


『もう逃げられないのよ、斉藤君。』


そういうと、馬のマスクを被った女と小太りの男は二人並んで店を出て行った。階段を上ってきたスーツ姿の男が、異様な格好の二人組みとすれ違う時に、倒れそうになるほど首をひねって凝視した。


俺は手から噴出す汗をシャツで拭い、机に置かれたガムの外紙を手に取り、中からつるつるとした表面の紙を取り出した。広げると中には「三葉商事株式会社 経営企画担当役員 川村洋二郎」と書いてあった。