旅に出る理由

何も変わらない日常が好きだ。いつも通りの道を歩いて、いつも通りの場所に着き、いつも通りの人と会う。いつも通りの缶珈琲を飲み、いつも通りの時間にご飯を食べて、またいつも通りの道を歩いて、家に帰る。ドイツ人哲学者のカントは、毎日同じ時間に起きて、仕事に行き、家に帰る規則正しい人だったらしい。俺も、可能であれば、そんな時計の針のような生活がしたいと思っている。


いつもの道が混んでいたりだとか、工事中だったりとか、ふとしたことで、いつもと違う道に迷い込むことがある。いつもと違う空気に五感全てが研ぎ澄まされる。路地の両脇に並んだ家屋から夕飯の匂い。茂った葉が落とす深い影。道幅も、ガードレールの錆具合も、全てが新鮮だ。何処に続くか分からない道は、どこか知らない場所につながっていて、もう帰れないかもしれないと不安な気分になったところで、慣れ親しんだ道に戻ってくる。


学生時代、旅に出るということが無かった。ずっと、変化の無い日常が続けばよいのに、と思っていた。旅って、お金を使って、知らない街で、知らない場所で寝て、疲れを溜めて、また家に帰るのだ。何が良いのだろうと思っていた。旅といえば、ツアー的なイメージが強かったこともある。テレビや雑誌で見られる場所に足を運んでも仕方が無い。友達にも、「実際の場所に行った経験なんて、全然意味あらへんよ。本読んどったらええやん」なんて言っていた。厨二病をこじらせるとこんな風になる。


旅のイメージが変わったのは、社会人になって、「水曜どうでしょう」を見てからだ。今は人気俳優に上り詰めた大泉洋の出世番組である。ディレクター二人、タレント二人が、カメラ一台で世界中を飛び回る旅番組だが、普通?の旅番組と違うところは、番組がスポットを当てるのは、出演者がいかに旅の行程で"やられているか"というところ。例えば、四国八十八箇所を車でまわる企画では、演者の大泉洋は、四国の自然の雄大さに感動したり、おいしい料理にコメント交じりに舌鼓を打ったりはしない。ただ車の後部座席に座って愚痴を垂れるばかり。ただ八十八箇所の寺を巡るという退屈さに、ディレクターと大泉洋が喧嘩を始めたりもする。番組の絵はずっと、車で移動している場面。


その様子を観ていると、楽しい。旅ってこんな風だよな、と思う。たしかに、旅はずっと車や電車で移動していて、目的地に滞在するのはほんの片時だったりする。それでも、車内で食べるおかきや、ペットボトルのお茶は抜群においしい。移動は旅の目的ではないのだけれど、ラーメンのスープくらい重要な要素だ。


マーライオンを見るとか、雪祭りを見物するとか、旅の目的はたくさんあるけれど、何よりも旅の目的は、家に帰ることだ。水曜どうでしょうは、仮に設定する目的に対して非常にドライである。目的が達成されなくても、大騒ぎしない。重要なのは、演者二人が日常に帰ろうと奮闘し、つらいことに耐えること。番組で度々登場する"深夜バス"に乗って全国各地に移動しても、必ず帰ろうとする。行きて帰る物語、過酷な移動に"やられ"ながらも家に帰ろうとする登場人物が愛らしい。


旅に出ると日常が恋しくなる。旅の終わり、知らない街で、自分の住み慣れた部屋に思いを馳せる。離れていると、日常が甘美で、輝いて見える。日常を愛するからこそ、より愛するために、旅に出る。俺は旅に出るのが嫌いじゃなくなったし、たまにフラッと、電車で知らない街に出掛けるようになった。目的も無く、ただ帰ることを理由にして。


そういえば、最近旅に出ていない。来週あたり、レンタカーを借りて、どこかに出かけようかな。

夜を行くテールライトは弧を描き空とつながる海へ向かった(賽野かわら)

魘されて、冬

風邪をひいていた。正月実家に帰った時に、親父殿からうつされたのであろう。自分の家に帰って、2日間程喉が痛んだり、鼻水時雨に苦しんだ後、1/5に発熱。


38度強の熱が出ていた。二日酔いの朝のような頭痛がして、立っているのもままならぬ。不思議と腹は減るもので、昼飯はレトルトカレーを温めて、切ったトマトをのせて食べた。


一人暮らしで風邪を引いてもむなしい。使った食器も、ゴミ出しも、風邪っぴきの身でこなさなければならない。取り替えたばかりの角の尖ったスポンジでカレー皿を洗い、午後もひたすら眠る。


翌日、いつもどおりの時間に目覚ましを鳴らし、出張の仕度をする。思ったよりも体調が回復していたので、意気揚々と家を出て、新幹線に乗り、一眠りしたのだが、起きたら昨日と同様の体のだるさが戻っていた。


鼻声全開でおめでございますを連呼する仕事始め。上司から英語を使った仕事を依頼されたので、昔の勘を頼りに、勢いだけでやっつける。


六時くらいまでに仕事を終わらせて、帰宅。帰り道のローソンで買ったマーボー豆腐・茄子丼とLチキ(あいかわらず食欲はある)を食らい、涅槃に入る。


二日間、ひたすら寝続けたので、睡眠過剰で眠れない。何度も寝返りをして、何度も布団を掛けなおして、闇の中で起きているのに疲れたところで、眠っていた。


なかなかハードな正月明けになったが、今年一年、がんばって仕事をしたい。がんばって仕事をして、もらったお金で、モヤモヤさまぁ〜ず2のDVDを買いたい。

自販機を蹴っては去りぬおっさんにウルトラマンは容赦なかった(賽野かわら)

いつも通りに

年が明けても、大阪は寒い。強く、乾いた風が吹き、コートの隙間から容赦無い寒さを感じる。冬が来るたびに、夏は素敵だったと思う。


明日まで休みが続くので、自分の家に引きこもって、ユニクロのパーカーを羽織り、フードまで被って、だらだらと過ごしている。去年から読んでいたニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』を読了した。


マネーの進化史

マネーの進化史


昼過ぎに上島珈琲に行って、黒糖ミルク珈琲を飲みながら、未来短歌会に投稿する歌を作る。上島珈琲のアイスのドリンクは、銅製の容器にたっぷりの氷が入っていて、ずっと冷たいままなのだが、ホットのドリンクはカップの口が広く、すぐに冷めてしまう、ような気がする。すっかり冷めてしまった珈琲を飲みながら、5首ほど作ったり、穂村弘の歌をノートに写したりする。自分の歌には"ブンガク"性が足りないのでは無いか、と悩む。("あるある"感に支配されているような気がする)


上島珈琲を出て、スーパーで晩御飯の食材や、洗剤、歯ブラシ等を買って帰宅。NHK仕事ハッケン伝を見ながら、お米を炊いて、ご飯を作る。暖房が効かず、寒い部屋だが、料理をしていると不思議と体が温まる。


休みは後一日。仕事が始まったら、また、名古屋に行かなければならないので、明日もまったり休みを満喫したい。


朝、今日考えた短歌を原稿用紙に書き写すことからはじめよう。

新年は いつも通りに 過ぎて行き いつも通りに 戻るもんだよ (賽野かわら)

そんな自分が嫌いじゃない

川崎の客先に常駐して働いていた時、激務からくるストレスで咳がとまらなくなったことがあった。ネクタイを締めると喉がつまるので、ゆるくノットを結んで、だらりとネクタイをぶら下げて、仕事をしていた。


帰りはいつも終電近くで、駅のコンビニで買ったサンドウィッチとトマトジュースを胃につっこんで、部屋に帰ったら泥のように眠った。


プロジェクト全体が炎上状態だったので、俺だけではなく、他のメンバーも激務に追われていた。同じプロジェクト管理チームに所属していた中国人の先輩は、ある日原因不明の頭痛に苛まれ、3日間ほどの休暇を取って、本国の気功師のもとに治療に行った。『俺は鉄人だから』が口癖だった同チームの先輩は、朝起きれない病にかかって、何日か連続で朝の会議をすっぽかした。


俺のストレスは喉に来た。喉にしこりがあるような感じがして、更に万年鼻づまり体質なので、息が出来なくなり、咳込む。食事もままならないほどだった。


ある日、急に目が覚めて、咳き込み始めた。喘息のように止め処なく、口の中にはどろっとした痰のようなものが溢れてくる。これはまずいと思って、思わず洗面所に駆け込み、口の中のものを吐き出すと、血が混じった痰だった。洗面器に手を置いて、何度も咳き込み、そのたびに痰と血を吐いた。


目覚ましが鳴る二時間ほど前だった。洗面器は真っ赤に染まり、酸素を求めて咳込み続けながら、脳裏には正岡子規の絶筆の句が浮かんだ。

糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな


正岡子規の句にように、俺はこのまま痰が詰まって死ぬんじゃないかと思った。この時の俺はヒロイックなシチュエーションに酔っていた。回りの人間が倒れていく中、血を吐きながら仕事に励む自分。


忙しいと、自分が世界の中心にいるような気分になる。締め切りに追われ、蛍光灯の灯りの下で、時計の針に支配された夜を、キーボードを打ちながら過ごす。追い込まれれば追い込まれるほど、雑念が浄化され、自分の世界が純化されるような気がする。その感覚は夜中に訪れるが、朝になると、睡魔と共に去っていく。残るのは疲れだけだ。


でも、そんな気分が嫌いじゃない。夜中に追い込まれるのが嫌いじゃない。がんばってる自分が嫌いじゃない。


夜、血を吐いた後、寝床に着いた俺は、次の日に起きれなかった時の言い訳を、同情を誘うようなメールの文面を、疲れきった俺を演じる電話の応対をシミュレーションしながら、深い眠りについた。

つま先の 糸がほどけた 革靴で ペダルを踏んで 漕ぎ出せば夜 (賽野かわら)

音が溶けた世界で

家に引きこもり、昨日ヨドバシカメラで買った『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』をプレイした。64版よりアクションの操作性が良くなっている。ダッシュしながら壁に突っ込むと、勝手によじ登る。狭い隙間に近づくと、ヒョイとジャンプする。崖にぶらさがり、コントローラーを揺らすと、横っ飛びする。最初の街を歩き回るだけでも、すごく楽しい。


あと、今回のゼルダは"小悪魔"な匂いがする。リンク以外の男といい仲になって、「サラマンダーよりはやーい」とか言い出さないか、今から不安だ。


今日は特に予定も無く、外にコーヒーを飲みに行くことも無く、家でずっと引きこもっていた。晩御飯は7プレミアムの酢豚を温める予定。そして、モヤさまを見ながら食べる予定。


窓の外は実に寒そうだ。冷たく澄んだ(都会だけど)空気がぴんとつっぱっているように見える。テレビをつけず、音楽もかけず、エアコンのうなる音だけが広がる世界で、俺は靴下を三枚履きにして、ユニクロのパーカーのジッパーを首まで絞めて、砂糖を3g入れたコーヒーをすすりながら、gmailを開く。


今日、未来短歌会に入会希望のメールを出した。

電磁波が 空にも届く 惑星で この部屋だけが 世界になった (賽野かわら)

成熟した社会の退屈なワタシ

堂山町の回転寿司屋で寿司を食べ、茶屋町のカフェでコーヒーを飲んだ後、人が溢れる阪急梅田32番街を抜けて、 紀伊國屋書店梅田店に入った。


仕事術・整理術、自己啓発、古典、他ビジネス書を眺め、人文書の棚へ。内田樹東浩紀仲正昌樹の新刊を手に取り、俳句・短歌の棚へ。平積みされていない穂村弘岡井隆枡野浩一の本のタイトルを一通り読んで、そのまま何も本を買わずに店を出る。


何度となく本屋に赴き、目的のものが見当たらず、何も本を買わずに立ち去ってきた。


本を読む理由はたくさんあるけれど、『自分が何をすべきかを知る』のも理由の一つだ。偉人の伝記、示唆と知見に溢れた科学書、目の覚めるような画集。自分の人生をドライブするような本に出会うことは幸福であり、ずっとそんな本に出会うために、本屋を彷徨ってきた。


『自分探しの旅』と言えば余りに陳腐に聞こえるが、実際にそれほど陳腐な行為なのかもしれない。


今、俺が探している本は『自分が何をすべきかを知る』ための本だ。この世でたった一冊の、自分のこの先の人生を決定する、劇薬のような本。『Stay hungry, Stay foolish』になれる物語が詰まった本。


本に書かれている物語はきっと、永遠に色あせない、常緑の大樹のように違いない。プロジェクトXに登場する決して諦めないサラリーマンがひたすらに一つの物語を信じて働いたように、自分もその物語に首まで浸かり、昼夜を忘れて没頭するだろう。それはかけがいのない自分を補完する『あなた』の物語だ。


物語に没頭するためには、物語が閉鎖的であることが一つの条件である。物語に必要ないものが除去され、目的が純化された世界でこそ、人は何かに没頭できる。それは一種の思い入れ(悪くいえば思い込み)を伴い、何かを強制する。目的という観念のために人を動き、時に死に至る。『あなた』の物語は劇薬である。


『考える人』2010年夏号のインタビューで村上春樹は閉鎖された物語が多くの狂信者を魅了したのがオウム真理教だったと語っている。閉鎖された物語は信者に反社会的な目的を強制し、犯罪をさとした。不純な世界からの救済という目的が純化され、信者は地下鉄でサリンをまき、人を殺した。強制力のある『あなた』の物語は劇薬である。


村上は物語はオープンであるべきだと言う。例えば小説のように、一次的に没頭させても、寝て起きればリセットされるような一過性の物語。オウム真理教が提供する閉鎖的で強制的な『あなた』の物語に対して、村上春樹が提供する解放的で自由な『どこかのだれか』の物語。物語は人に考えることを要請し、判断を促すべきだと言う。しかし、『どこかだれか』の物語は退屈である。純化されていない『どこかだれか』の物語は、『あなた』の物語を決して補完しない。『あなた』の物語を忘れるためには、『どこかだれか』の物語を消費し続けなければならない。


7月にフジテレビで放送していた27時間テレビ。ナイティナインの矢部が27時間ぶっ通して走り続けてきた最後の30分、相方の岡村や他のめちゃイケメンバーが見守る中、1本のVTRが流される。それは、2010年に病気で一時休業した岡村に対する矢部の想いだ。相方の突然の喪失、相方への尊敬の念、そして相方復帰への喜び。矢部の本音を聞いた岡村は涙を流しながら、走る矢部を迎えに行く。


27時間テレビという大きな舞台に用意されたナインティナインの再生の物語を、俺を含めた多くの視聴者が共有し、感傷に浸る。しかし、その感傷は一過性の、ものだ。なぜならそれは、ナイティナインの『あなた』の物語だからだ。他人である我々は一晩経てば正気に戻り、また次の物語を求める。没頭と感動を求めて次の消費行動へと移る。


『どこかだれか』の物語をもとめるのは、『あなた』の物語が水を入れすぎたカルピスのように薄まっているからだ。達成されるべき目的は見当たらず、『自分が何をすべきか』は解の無い方程式のようだ。物語最大の『生きる』という目的は、自分の半径50m以内の領域で、満たされてしまう。歩いて1分のコンビニで生活に必要な全ての物を購入でき、パソコンを開けて10秒で、あらゆる情報を、あらゆるコンテンツを得ることができる。限りなく自由で、限りなく便利で、限りなく成熟した社会で、『あなた』の物語を失い、俺は限りなく退屈だ。


『あなた』の物語が完全に薄く引き延ばされても、そこに味の濃い原液を注ぎ込むような物語を、社会は提供してくれない。60年安保や、反ベトナム戦争や、西武百貨店が流れていった跡には草が生い茂っている。過去に栄光を誇った大きな物語は既に解体されて久しい。その解体された物語の破片をつなぎ合わせてみようと思ったが、うまくはいかない。


成熟した社会が提供する『あなた』の物語は、そのほかの『どこかだれか』の物語に吸収される。3月11日の発生した大地震や、福島第一原発の事故は、国家や民族というフィルタを介して、『あなた』の物語になることを、テレビやインターネットといったメディアは強要する。しかし、俺には物語をうまく共有できない。メディアが提供する他の『どこかだれか』の物語、村上春樹が提供する『どこかだれか』の物語と同次元で、消費してしまう。当事者であるはずなのに、その物語は自分に寄り添ってこないように感じる。


『あなた』の物語を探して、紀伊國屋を彷徨ったが、結局何も見つからなかった。紀伊國屋を出ると、天井の高い、大きなテレビが二台備え付けられた空間には、誰かを待つ人々が溢れている。彼らは、俺と同じように、『どこかだれか』の物語を消費して、一晩の感傷と涙を得るのだろうか。それとも、『あなた』の物語を生きている人たちなのだろうか。

君達が この学校を卒業し 社会に出ても 明日はないぞ (賽野かわら)

一滴

水道の 蛇口に溜まった 水滴が ワタシを映して シンクに落ちる


カルピスの 瓶に溜まった 一適が 夏の終わりを 教えてくれる


味噌汁に 箸をひたして 上にあげ 落ちる水滴 それを見る祖父


目薬を さして眼を 見ひらいて 泣いてないよと 言い訳をした


仰向けに 倒れてもいい 目薬が 脳まで届いて くれるのならば


中庭の 池は凍って 白くなり 俺は5階で 石を構えた