クルマがある生活

三ヶ月に一度くらいのペースで、お客さんの工場の敷地内で自動車メーカー各社が新型車の展示会をしている。この前はトヨタのディーラーが来ていて、プラグインハイブリット仕様のプリウスを展示していた。ボンネットが開けられてエンジンなどの内部構造が見られるようになっていたが、俺はあまり詳しくないし、実物を眺めても良く分からないので、カタログだけもらって自分の机に戻った。


カタログをひろげると、プラグインハイブリットの仕組みが分かりやすく説明されていた。常時はバッテリーの電力をモーターに流し込み、タイヤを駆動させることで走行するが、バッテリーの電力が不足すると、動力源がモーターからエンジンに切り替わる。ドライバーが意識せずとも、道の傾斜や走行速度によって、自動的にこの切替作業が行われる。電気自動車でありながら、電力を気にすることなく、ドライブができるというわけだ。車にあまり興味が無い俺にとっても、先進的な技術にロマンを感じる。クルマの未来はきっと、こっちの方向へ向かっていくのだろう。


自動車産業で仕事をはじめるまで、クルマに全く興味が無かった。公共交通機関が発達している都市部に住んでいるので、電車やバスといった代替手段があるし、車にかかる諸々の費用を考えると、購入には二の足を踏んでしまう。クルマが無くても普通に生活ができるのだし、近場は自転車で、遠くへは電車で、という結論に行き着く。クルマを所有して、クルマで出かけて、という「クルマがある生活」を想像できない。


自動車メーカーはクルマ離れを起こしている若者にクルマを買ってもらうために、機能性やデザイン性ではなく、「クルマがある生活」に焦点をあてたCMを打ち出している。ダイハツのCMは、瑛太が演じる主人公が都会から地方都市に引っ越してきて、街に溶け込みながら生活していくストーリーが描かれている。クルマは物語を支える小道具に過ぎない。
登場するクルマに装備されている機能の詳細は排除されて、「低燃費」というシンプルなキーワードだけがフォーカスされている。


経済力を脇に置けば、クルマ離れを起こしている若者の消費を喚起させるのは、「クルマがある生活」のイメージだと思う。壮大な景色が広がる山道を唸りを上げて走らずとも、近所のスーパーマーケットに卵を買いに行くだけでもいい。日々の生活にクルマが入ってくることで、どんなことが出来るようになるのか。パワースライドドアやアイサイトといった機能ではなく、生活を支える根源的な機能として、クルマは大きな役割を果たすことができる。


名古屋から少し外れた地方都市で働いていると、ここでの生活は都市での生活と大きく違うことに気がつく。スーパーマーケットに食材を買いに行くのも、友達とご飯を食べに行くのも、少しお洒落な洋服屋にでかけるのも、全てクルマで移動する。街の機能が偏在する地方では、クルマが無いと生活ができないので、家族が一人一台クルマを所有していることも珍しくない。なるほど、この街でクルマとはこんなに重要な役割を果たしているのかと思い知らされた。


クルマの根源的な機能は移動することだ。だから、都市部に住み、移動手段を公共交通機関で補っている俺のような若者は、クルマを保有しなくなる。


クルマはもっと、根源的な機能に立ち返るべきだと思う。移動手段としてのクルマは生活に大きな変化を与えることができる。街の機能が偏在する場所で、移動手段としてのクルマが大きな役割を担うことができる。


プラグインハイブリットのように、先進的で高度な技術がユーザの意識しないところで働き、プラグをコンセントに指せば動き出す電子レンジのように、クルマを運転できる。そんな高度でシンプルなクルマは、今とは全く違う生活を可能にしてくれると思う。


クルマについて、他にももっと色々考えてみたいけれど、この記事はこのへんでおひらき。