トイレの神様

ホテルに泊まって最もうんざりするのは風呂だ。俺は湯船につかる習慣が無く、毎日シャワーで済ませてしまうのだが、風呂に執着がない俺でもユニットバスというのは許しがたいものである。


汚れた体を洗うための場所と人が汚れたモノを排出する場所が同じ空間にあるというのが理解できない。用を足した後の臭気が蔓延した場所でシャワーをあびる苦痛といったら無い。ユニットバスの浴槽に湯をためるなど、正気の沙汰ではない。


筒井康隆の『狂気の沙汰も金次第』(新潮文庫)の表紙、山藤章二が描く筒井康隆は、便器を浴槽にして湯に入っている。狂気じみた所業のひとつとして便器につかるというイメージを描いているのかもしれないが、この絵を見るとゾクっとする。理性をすっとばして『きもい』という生理的な反応が呼び起こされる。


狂気の沙汰も金次第 (新潮文庫)

狂気の沙汰も金次第 (新潮文庫)


映画『ボラット栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』のシーンでは主人公ボラットが水洗トイレで顔を洗うシーンがある。最近見た『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』では現実世界から魔法の世界へ移動するのためにトイレの中に入るシーンがある。なぜ、世のクリエーターはそこまで便所という人があまり見たくないものを大っぴらに表現するのか。


小さい時に、用を足した後の和式トイレに足をつっこんだことがある。自宅にあるのは洋式トイレだったので、どんな体勢で用を足せばいいのかわからず、必死の思いでことを終えて、さてティッシュをとろうと手を伸ばしたら、足がすべり、そのまま便器に落ちてしまったのである。ズボンとパンツが汚れてしまったので、フルチンのままトイレから出て、母親に泣きついたと記憶している。


それ以来便器はだめだ。和式はもちろん、洋式もだめだ。どうしてもそこに落ちていくイメージが拭えない。『トレインスポッティング』のマーク・レントンのように、中に落ちて飲み込まれてしまうような、そんなイメージがある。


植村花菜トイレの神様もそうだ。なぜトイレなのか。庭先とか玄関とか、物置とか、住宅には汚れがたまる場所が山とあるではないか。カーテンレールの裏だっていい。なぜトイレなのか。なぜクリエーターはトイレを描きたがるのか。


トイレはもう、そっとしといてくれ。

トイレには それは綺麗な 100均で 買った便座の カバーはピンク