他人のことを考えると不快になる

最近、俺は他人のことを考えすぎるのではないかと思うようになった。


身近で仕事や生活をしている人が、自分の頭の中を占拠するようになり、その人達について考える時間が長くなる。考える時間が長くなればなるほど、その人の負の面(嫌いなところ、むかつくところ)に思考が偏るようになる。そして、不快な気分になる。


考えているだけなので、不快な気分について、言葉に発したり、ネットに書き込んだりすることは"あまり"無い。なので、不快で鬱屈な気分がどんどん自分に溜まっていく。


ツイッターのTLを眺めていると、東浩紀小田嶋隆といった著名な人に無礼なコメントを飛ばしている人を見かける。彼らは、他人のことを考えすぎて負の面ばかりが気になるようになってしまった人たちだと思う。タイムラインに東浩紀小田嶋隆が登場するたびに、彼らについて考え、自分と意見の合わないところを見つけ、不快になり、憤ったコメントを飛ばす彼らを、他人事のように思えない。


タイムラインに住んでいる他人に憤る人達のように、自分の鬱屈な気分が爆発するのではないかと不安になる。思いやりが過ぎると、思い込みになって、牙を剥くような荒々しい気持ちになる。「人が他人のことを考えると不快になる」というのは、人間にとって普遍的な傾向ではないかと思えてくる。


こういうものを仏教は煩悩と呼ぶのだろうか。


「他人のことを考えると不快になる」のであれば、他人のことを考えなければいいのだが、自分の思考をコントロールすることは難しい。考えまいと考えれば考えるほど、蛇が地面を這うように、負の方向へ思考が偏っていく。


仏教の教えるところによれば、煩悩を追い払い、解脱の状態に達するためには、念仏を唱えるとよいという。頭の中を念仏で満たしてしまえば、煩悩がつけいる隙も無い。


念仏がいいのか、仕事に没頭するのがいいのかわからないが、あらゆる方法で、他人のことを考える傾向をコントロールしたい。人に対して思いやりを無くしてしまうということではなく、負の方向へ向かう思考を防ぎたい。


他人のことを考えて不快になるくらいだったら、頭をからっぽにして生きていきたい。

木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ(正岡子規)