故郷から遠く離れて

週に5日間、名古屋に出張し、自分の家ではなくホテルに住まう生活を始めて一年半以上が過ぎた。ホテルのフロントでは名前を言わずとも、チェックインできるし、帰ってきたらすぐに鍵を出してくれる。ホテルの窓は見晴らしが良く、遠くに背の低い山があり、手前には駅からマンションの敷地に繋がる陸橋が見え、雨奇晴好の景色が広がるが、まるで自分の部屋から見える景色のように、目を瞑っても細かいところまで思い出すことができる。


最近プロジェクトに入った同僚は、『普段は、家に帰って子供の世話をしたり、家事を手伝ったりするけれど、出張中は部屋に帰っても何もすることが無いから、退屈だ』なんて言うけれど、そんなことは無い。椅子は座り心地が良いし、テレビも最近新しくなったし、お湯を沸かせば
お茶も飲める。ホテルのレストランで天丼を頼み、近くのコンビニでビールを調達すれば、豪華な晩飯にありつける。出張は楽しいものだ。


人は新しい場所に適合することができる。露の間に要領を覚え、土地感をつけ、我がもの顔で街中を歩きはじめる。ふとした瞬間に、過去自分が住んでいた場所を思い出し、寂寥の感が胸をよぎることもある。適合することは開き直りであり、何かを忘れることではない。ここで生きていかなければならぬという、止むに止まれぬ思いで、土地で生きる術を学ぶ。


大伴旅人は、従三位の公卿の地位に登ったエリート役人で、師(そち)として九州の大宰府に赴任した人である。下向直後に妻を亡くし、後に出世の道も絶たれ、憂いに満ちた歌を万葉集に残した。

世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり


故郷飛鳥を離れて、大宰府で生活する中で、旅人は世の中は物事が空しいものであり、それがわかってますます悲しいことだと言う。故郷を思い、根無し草になりながら、職務に追われる日々。しかし、旅人は山上憶良や自分の部下達と梅花宴なる歌会を開いたり、酒を飲んで空想に満ちた歌を詠むなど、孤独な場所で開き直る術を見出した。


馴染みのない場所でも、一晩経てば、自分に寄り添ってくる。俺が最初にアメリカに渡った時、フィラデルフィアという街の、市庁舎から南にいった所にあるホテルに宿を取った。外は体の大きなアメリカ人が闊歩し、テレビをつければ聞き取れない英語が流れ、孤独を分かち合う知り合いもおらず、枕は首を痛めそうなほど高かった。それでも、次の朝、霧の立つフィラデルフィアの街はどこか親しげに思え、ここで生活していかないと、と強く心に決めたものだった。


どんな場所でも一晩寝れば良い。次の朝、目の前に広がるのは昨日見た場所であり、知った場所だ。そうやって、開き直って、思い出を上塗りしながら、新しい場所に適合して、生きていく。ここで生きるしかないんだと、開き直って。

我が園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも (大伴旅人)